【映画】「メッセージ」
すごく時間が経ってしまったので、簡単に……と思ったら結構書きこんでしまった(現在7/7)。
まぁ、まだ上映されているようだし、おススメ作品だし、ちょうどいいか。
「ばかうけ」で話題(?)のSF映画を見に行った(登場する宇宙船の形状が、米菓「ばかうけ」にそっくり(笑))。
地味だが面白かった。
正統派SF、という感じ。
以下、ネタバレがあるのでまだ観ていない人はここでストップ。
この映画はおそらく先入観を持たずに見に行ったほうがいい。
そしておススメゆえ、まだ観てない方はぜひどうぞ(脳ミソ使う系なので、疲労しきっているときにはおススメしません)。
すごくすごく地味な映画だった。
話の起伏はあれど、終わってみればなぜか「静かに進んだ」イメージしかない。
まぁ、宇宙船やタコ入道たち(ヘプタポッド)、書道チックな言語表現なんかはCGで、よく作りこまれているんだけど(なかでも彼らの筆記イメージは美しい)、それにしたって他のSF作品と比べるとまずは「映像が地味」である。
舞台だって最初から最後まで地球上、それもまったく未来チックじゃない、今この瞬間の出来事だと云われてもおかしくないような地球だったわけだしね。
とゆーわけで、どーしてそんなにヒットしているのかよくわからない(笑)(ちなみに平日の最終回に行ったにもかかわらずほとんど満席だった)。
ハナシは面白いけどね!
映画としても面白いけどね!
「一般受け」する感じではないのにナゼダロウって意味で。
映像や舞台設定が地味なだけじゃない。
よくある「未知の生命体(ないし他者)との心の交流」的なドラマもここにはない。
そりゃ確かに、立場をまるで異にする科学者二人が出てきて「こいつら一緒にやっていけんの?」と思っていたら、どんどんお互いに相手を認めるようになっていった、そのあたりはヒューマンドラマと云えなくもない。
ヘプタポッドらが二人をかばってくれるのも、無理すればヒューマンドラマと受け取れなくもない。
でも描かれているのはもっとドライな関係性だ(別に悪い意味で云っているのではない)。
ヘプタポッドはウェットな感情によってというよりは彼ら自身の目的に従って二人をかばうことを選択しただけだし、科学者二人の関係性はプロジェクト遂行の要素として淡々と描かれているにすぎない。
まぁそういう地味さやドライさが、逆に人気の秘密なのかも。
みんな若干食傷気味なのかもね、類似した感動ポルノ手法や懲りすぎなSF表現に(笑)。
挿入されるヒロインの記憶(あえて「記憶」と書く)を、最初は過去だと思っていた。
だってふつう、そうだから。
でもだんだん「おかしーなー」と思い始める。
そのうちに「未来視なんじゃ…?」と思うが、じつはこれは用語が正しくない。
最後にやっと「未来の『記憶』なんだ」とわかるわけだ。
未来の記憶を発見した彼女は、それを武器として「望ましからざる未来」を退ける。
じつに王道のSF!!(笑)
以下青字は、私見(妄想?)をだらだら書き連ねただけ。
読まないでもいいかも(読まない方がいいかも……)。
なぜヒロインだけが未来の記憶を手繰り寄せられるのか。
それは、あのとき、彼女だけがヘプタポッドの言語体系を把握していたからだ。
たとえば、私たちは日本語の単語や文法をすべて知り尽くしているわけではないけれど、日常においてそれで困ることはないし、いくらでも応用をきかせられる。
それは日本語の体系を把握しているからだ(と思う)。
ヒロインは、ヘプタポッド語への「理解」はまだ浅いにしても、体系を把握しつつあった。
それゆえ彼らの言語を処理するための、新たな認識のための領野が脳内に開拓されたか起こされたかしていたと考えるとわかりやすい(?)。
そしてその認識は、これまでの直線的時間とはまったく異なる時間認識をともなうものだった(本当はここがミソな気がするけど、時間のハナシは難しすぎてうまく説明できないので、割愛……スミマセン)。
突然だが。
ある存在は、全体としてまるごと一つの存在だが、それに対して「この花は赤い」と云った瞬間に、「花」「赤い」以外の情報は抜け落ちている。
コトバとはかように分節的なツールだ。
しかしそう表現されるからといって、その存在の「花」「赤い」以外の要素がなくなったわけではない。
一つの存在は全部まるごとひっくるめて存在である。
そのような視点に立ったとき、たとえば「明日のあなた」も「あなた」という存在に含まれていないだろうか。
(自我が継続するかとか自律するかとかややこしい議論は全部割愛させていただいて)もしも「明日の(未来の)あなた」も「あなた」という存在まるごとに含まれるものなら、そして直線的時間認識のくびきを外せるなら、「過去のあなたの記憶」同様に「未来のあなたの記憶」だってアクセスできてあたりまえなのかもしれない。
その認識が絶対に不可能であると、どうして云えるだろう。
ニンゲンの脳みそなんて一部分以外はほとんど寝てるって噂だし、そういう認識能力が起きたっておかしくないじゃない?
未知の能力でなく、認識能力のバリエーションにすぎないってトコロもミソ(未知の脳の働きであるにしても)。
であればこそ、ヘプタポッド語を修得した人ならだれでも獲得できるってことになるワケだ。
繰り返すが、ヒロインは自身の「記憶」を「発見」したにすぎない。
それは「予知」や「未来視」じゃない。
「未来視」のたぐいと違って凄いのは、特権的能力でないこともさりながら、自分の望む部分を発見できるところだろう。
ちょうど私たちが「鍵をどこにしまったっけ」と思ったときに記憶をたどる、あれと同じことをやるわけだからして、「望んだ」記憶を取り出していることになる(ちょうど都合のいいものがあるかどうかは別なハナシ)。
そう、その意味でも「予知」とは全く異なるものだ。
現在の自分が「望む」がゆえに特定の(たまたま直線的時間に訳せば「未来」といわれるパートの)記憶にたどりつき、それによって同時に自分の未来が規定されるのだから、現在こそが未来の原因になっていると云える点で(「同時」「原因」などの表現は直線的時間を想起させるので本来使うべきではないがほかに云いようがないのでご勘弁)、「因果関係が逆転している」やら「世界は決定されてて人間の意志は反映されないというのか」といったもろもろの非難も全く当たらない(流行りのガースー風表現)。
なるほど、「武器」と表わされて当然なのかもしれない。
これ(「発見」ってニュアンス)ってちょっとパースのアブダクションに似てる?(似てませんって怒られそう)
ちゃんと理解していないので眉唾だが、昔々、大学のゼミでその奇妙な推論形式について教授から説明を受けたときに、先取りした感覚(結果)をあとから裏付けるという、認識の仕方が逆転しているような難解なイメージゆえに、全然理解することができなかった(いまも……)。
その「記憶」を、映画を観ながらしきりと思い出していた(笑)。
ま、たわごとはこのくらいで。
望んだ「記憶」を探すことができるからといって、実は「自分に都合のいい状況を選べる」ということとイコールにはならない。
「記憶」の発見には「ツール」としての意味しかなく、自らの望むものを引き寄せるには「あなた」自身が日々たゆまぬ歩みを続けるしかない。
それゆえにこそ、たとえ「あなた」がすべての「記憶」を発見するとしても(つまり来し方行く末すべてがつまびらかになってしまうとしても)、「あなた」が歩む一瞬一瞬のきらめくような貴さはきっと変わらない。
だれかの悲しい未来の「記憶」を望まぬうちに発見してしまい、その「記憶」のままに未来まで歩き続けなければならないとしても、彼らのいとおしさに変わりがないように。
……と、いうようなことをヒロインに語らせていたと思う。
自分なりの解釈も入っちゃってるので、そっくり正しいかどうかは怪しいが、基本は合ってるんじゃないかな。
でもって、こういう視点は好ましく思う。
原作を読んだことのある友人からあとで聞いたが、この映画を観て、原作では難解でわかりにくかったことが「そういうことだったのか」とスッキリ腑に落ちたそうだ。
監督の理解と演出が素晴らしかったってことだね。
地味だが、とてもおススメな映画だった。
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