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2015年10月31日 (土)

【映画】『顔のないヒトラーたち』


行った記録だけ(現在12/1)。

戦後ドイツのお話。
終戦から10年以上経つのに、アウシュヴィッツの存在は知られておらず、国内では元ナチス党員が平穏に暮らし、上層部においても幅を利かせていたらしい(知らなんだ)。
「臭いものに蓋」する情勢だったのだ。
それを引っくり返したフランクフルト裁判(別名アウシュヴィッツ裁判)に至る過程を、若き検事の姿を通して見せる、静かな語り口の作品。
今のようなツールは皆無で、ひたすら足と手と目と耳とで証拠を稼ぎ、地道な作業を積み重ねてようやく裁判へ漕ぎつける(映画はここで終わる)。
フランクフルト裁判ではアウシュヴィッツの実態が初めてドイツ国民に暴露され、その後、それは社会全体のうねりとなってナチスのくびきを打ち破っていく。
正義のためにナチスを追い詰める検事だって、何人も現れたらしい(今はほとんどが故人)。

だが、監督はこの契機に至る道筋を、ドラマチックには描かない。
起伏はあるものの、何しろ静かだ。
非常に内省的だ。
空腹だったのでついポップコーン買っちゃってて、あとで凄く後悔した(笑)。

こんな「自分たちの痛みを伴う作品」をなぜドイツ自身が作ったのか、とても疑問だったんだけど、あとから考えるに、これを「ドイツ国民の良心」が復活し昇華された日の記念碑として見るなら、至極妥当なことかもしれない。
対して我が国がどうであるかを鑑みるに、恥の文化を持ちながら、臭いものに蓋して過ごしてばかりに見えてしまうのは痛いことだ。

この映画が製作された現在は、世界的不況がまだのさばっている時代であり、そういう時代には人々は右傾化しやすく、作品も右傾化されやすい。
経済的に豊かな時期ならリベラルな作品が多く出てくるものの、こうした不況の時代にこのような主題の作品を作ったことは、称賛に値すると思う。

正義と良心。
西洋的規範ばかりを優先する謂れはないけれど、それでもこういう作品を見ると、やはりこの二つが光を導くように思えてくる。
ドイツだって完璧じゃない。
それでもこういう視点を持ちうるかどうかは大きな差なのだ。
我が国の政治家は「良心」をもっているのか。
我が国の司法は「正義」を行っているのか。
考えさせられる作品だった。

という上記のようなまとまった感想は後日のものだ。
映画を観終わったときに、一番印象に残っていたのは、裁判で裁かれた人々(アウシュヴィッツ絡みの元ナチス党員)の全員が、だれも謝罪を口にしなかったという最後のテロップだった。
結構衝撃だった。
なぜなのだろう。
実はこの映画を見るちょっと前に、テレビでセルビア関連のドキュメンタリーを放映していた。
収容され虐待を生き延びた人が、虐待した側に会いに行くと(相手は彼が大好きな学校の先生だった)、やはり謝罪しない。
「あのときは仕方なかったんだ」といったことを口にするが、「自分が悪かった」とは決して言わないのだ。
これって、彼ら(加害者側)の心中は何も変わってないってことでは?
と、暗ぁい気持ちでテレビを見たわけだけど、ちょうどそれに通ずるなと思ったのだった。
虐殺に関わった人間は(全員ではないだろうが)、良心の回路が壊れてしまうのだろうか?
まぁ、良心の回路なんてものがあるとして、それはきっとごくごく壊れやすいものに違いないから、だからこそ壊さず保ったまま生きようとする姿は感動を呼ぶのだろう(無難なマトメですんません)。

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