意外と面白かったが、全体に「気の毒」感の漂う作品だった(笑)。
(注:作品自体が「気の毒」なわけではアリマセン)
以下、ネタバレ含むので、これから観に行く人はここでストップ。
予告にだまされた(笑)。
系列としては昨年末に見た『ヘラクレス』とおんなじ感じ。
トンデモパワーのトンデモ男が活躍するスーパーないしマッチョな話かと思って観に行くと、思い切り肩透かしをくらいます(笑)。
映画はこんな感じ(すご~く噛み砕いて書いてアリマス)。
エジプト王家の生まれだと思っていたモーゼくんは実はヘブライ人の捨て子だった。
事が露見し、兄弟のように育ちながら出来のいいモーゼくんに嫉妬もしていた新王ラムセスによって追放されちゃうモーゼくん。
流れ着いた先で結婚し、ラブラブ幸せに暮らしていたのに、神様と出会っちゃってつきまとわれちゃって、とうとうエジプトへ単身赴任することに。
ヘブライ人の頭目となり、昔取った杵柄(エジプト王軍の実力派将軍だった)で民兵を組織し、レジスタンス活動を開始するモーゼくん。
だが、モーゼくんの「解放しろ」という要求にラムセス王が応えるわけもない(外交は苦手なモーゼくん……)。
モーゼくんがゲリラ戦を駆使して凄く地道に時間をかけて事を成そう(ヘブライ人を奴隷から解放させよう)と思って頑張っていたら、神様が「じれったくて見てられん」と宣って(いままでの400年間の「沈黙」はナニ?)、カエル大発生やら蝗害のすげーのやら、神パワーによって(推定)自然災害がそれこそ雨でも降るかのように次から次へとエジプトの都に襲いかかる。
そして最悪の災厄がやってくる……(「過越し」ですよアナタ)。
ヒツジの内臓の血を玄関の戸になすりつけてなかった人々の子どもがみんな死んじゃって(神様がお取りになった)、とうとう「出て行け(怒)」という話に。
エジプトを出て行こうとするモーゼくんたち、そして怒りと憎しみで盲目状態となり(それ以前にもけっこー盲目っぽかったが)彼らを追って殺戮せんとするラムセス王。
さんざんモーゼくんにつきまとっていた神様は、ここに至ってなぜか全然モーゼくんの前に現れなくなり、モーゼくんは自分で道を決めなければならない。
持てる知恵を駆使して海岸にはたどり着くが、対岸ははるか海の向こう。
「道を誤った」と後悔し、自分の非力さを恥じるモーゼくん。
しかし一晩あけてみたら超・引き潮が発生、これなら頑張れば徒歩で渡れるじゃん?(大変は大変だけど)
頑張ってみんなを渡らせていると、ラムセス王の部隊が追撃をかけてきて……そして部隊はみんな津波にのまれちゃいましたとさ。
そう、「予告にだまされた」ってここのこと(笑)。
モーゼくんは海を割らなかった!(予告を見るとまるで割ってるように見える)
超引き潮の浅瀬を渡ったあとに、大津波がやってきた、その場面だけ切り出すとちょうど「海が割れている」ということなのだった!(リドリー・スコット監督の一大仕掛け)
要するに、だ。
モーゼくんはリーダーシップは高いけどただのヒトで、神様に見込まれちゃったがために、ものすごく苦労する、というお話だったわけ。
今まで「十戒のモーゼ」と云えば、信念バリバリ、カタくてコワくて「正義の鉄槌」をビシバシ下しちゃういかめしい顔した爺さんというイメージがあったんだけど、映画を見てそれが崩壊した。
なんて「気の毒」なんだ、モーゼ……。
まるで中間管理職……同情を禁じ得ない……(ほろり)。
もう一つ、胆力のある監督だと思ったのだが、神による「災厄」や「奇跡」は、『ヘラクレス』の「英雄譚」と同じように現実に即したものとして描いてあった。
監督の擁護のために書いておくと、それらの現象の原因は「神」である。
が、現象自体は科学的な説明が可能であるように描かれていた、ということだ。
たとえばエジプト王国を次々と襲った「災厄」は、すべて個々の自然現象が相互的因果関係をもって連綿と生起していくように描かれていた(カエルが大発生して陸に上がると水不足で死んで、その死体に虫がたかって疫病が蔓延…云々)。
まあ、「過越し」だけはアキマヘンでしたが……。
ただ、過越しにせよ神との邂逅(幻視的風景)にせよ、それらの「記述可能な自然現象」が逆に引き立て役となっていたがために、ほんのちょっとの違和感で超自然性を演出していた気もする。
なんだか、こういうのが今の流行なのか?
『ヘラクレス』がまさにそうだった。
よくある「超人による超人的活躍を描く」っていうのではなく、ある程度現実に即したように記述されるというか、現実的な切り口を提示されるというか。
もしかして……
見てないけど、もしかして『サン・オブ・ゴッド』もこの系列の作品なのか?
「ラザロは実は仮死状態だった」みたいなストーリーラインを張ってあるとか……?
ちょっと気になる(ドキドキ…)。
いずれにせよ、これまで「スーパーナチュラル」なものについては、いかに「スーパーナチュラル」性を(CGなどを駆使して)描き出すかという点に注力してきたわけだが、この潮流は(これが最近の「傾向」であるなら)それらに「リアリティ」を与えることによって逆に観る者の想像力へのインパクトを引き起こそうとする試みのような気がする。
私はキライじゃないかも。
モーゼと神様との会話も面白かった。
子どもの姿を取る、というのは、聖人の伝承にわりあいよく見られるシチュエーションであるから、自分的にはすんなり入った。
こうした「難しい」部分の映像化は、監督の力量次第なわけで、その意味でもこの作品は「結構うまくやってある」と思う。
(逆に監督として「正しいイメージを掴んだ」と思ったから、映画化に着手したのかもしれないな……)
ただひとつ、難点をあげれば、英語が聞き取りにくかったかな~。
あ、あと、今回はなぜか「英語で話しているなぁ」というのが意識されちゃって、ちょっと辛かった。
ヘブライやエジプトとの乖離を感じ続けた、とでも云うか。
『ヘラクレス』のときは感じなかったんだけどなぁ。
ああ、そうそう、何が「気の毒」だったかって話で云えば、みんなみんな気の毒だった。
モーゼはいろいろ中間管理職で気の毒だった。
ラムセス王は人間の出来が悪くて気の毒だった(本作では徹頭徹尾、かなりの割合で「かわいそうな子」だった)。
ラムセスの王妃は息子と同時に心も失っちゃって気の毒だった。
エジプト人は終わらない災害や疫病に曝されちゃって気の毒だった。
エジプト王軍の戦車隊は愚王につきあわされ全滅しちゃって気の毒だった。
ヘブライ人は逃避行が結構な強行軍で気の毒だった。
モーゼの妻子は彼が長々と単身赴任しちゃって気の毒だった。
ヨシュアは虚空に向かって喋る男を信じなきゃならなくて気の毒だった(モーゼが神と話すときヨシュアには神の御姿が見えないから)。
そしてさまざまな動物が(特にエジプト王軍のウマたちが)作品内で次々に死んでいくのが気の毒だった。
(さらに云えば、試写会途中のわりと早い時間に隣の隣の席のおばあちゃんが突然倒れちゃって気の毒だった……周囲の人間がちゃんと伝えに行ったにもかかわらず、日本橋TOHOの映画館のスタッフの対応は非常に「遅」かった。緊急性のある倒れ方だったらどーすんだ?)
とにもかくにも何が気の毒ってモーゼくんがいちばん気の毒だった。
だから、他にも「気の毒」って視点を向けちゃうんだよね。
ま、神の愛、神の試練とはこーゆーものさ。
終わってみれば結構堪能できましたとさ。
さすがリドリー・スコット。
ちょっとヤラレタ感が……く、くやしい(笑)。
最近のコメント