【舞台】蜷川「海辺のカフカ」(彩の国さいたま芸術劇場、埼玉・与野本町) #海辺のカフカ
考えてみると結構エログロな話だった。
井上ひさしもエログロなところがあるけど、決定的な違いはこの舞台では「脚本中に笑いが用意されていない」ことだな。
原作がそうなんだからしょうがない。
とはいえ、ワクワクドキドキするわけでもないこういう話で笑いが用意されないのは観る側としてはちと辛いかも。
宮沢りえはセリフが聞き取りやすくていいなぁ。
横を向いていてもちゃんと聞き取れるもんね。
とても滑舌が良くて、綺麗です。
あの細っこい身体のどこからパワーが出てくるんだろう。
主人公というか狂言回しのカフカくんは新人さんで、途中でセリフをトチッたりもしていたけれど、未成熟でダメなお子ちゃま青年の感じがよく出ていた(笑)。
猫さがしのナカタさんと、猫殺しのジョニー・ウォーカーのくだりは、たぶんほとんどの人が観ていて厭だったのではないかと推察する。
私も嫌だった。
そしてあんな嫌ぁな場面をあの二人が毎日繰り返し演じているかと思うと、結構ぞっとするものがあった(本当にご苦労様だと思う、あのお二人は……)。
フェイクだとわかっていても嫌なものだなぁ。
それだけリアルだったってことなのかもしれないけど、この話においてその事象が何を意味するのかがわからず(頭悪くて済みません)、結局舞台から悪意を向けられただけのような印象に終わってしまった。
ちょうどラース・フォン・トリアーの『アンチ・クライスト』を観たときのような感じ。
「こんな悪意を向けられるほど、私ら、何か悪いことをしたか?」
と、思わず思う。
それが狙いなら、まさに手の内にあったわけだが。
なんか感想がまとまらないので、覚えていることだけざっと書いておこう。
猫を人間が等身大で演じる演出は面白かった。
猫役のみなさん、お疲れ様(笑)。
後半、あれがなくなっちゃったのがちょっと残念だった。
大道具は……う~ん……面白いけど、私のような人間からすると「やりすぎ」な気もする(ちょうどピーター・ブルックの『タイトロープ』の記事を読んで、彼の舞台を思い出したあとだったのがいけなかったかも)。
BGMは、オープニングが先月観た『わたしを離さないで』のオープニングと全く同じで、いただけなかった。
途中だの最後だのに他の舞台と同じBGMを使われても、それまでの経過によって違う印象を持っているから気にならないものだが、オープニングはだめじゃろう。
せめて舞台から舞台まで二か月は空いてないと。
「またこれか」と思ってしまった。残念。
大道具やりすぎと書いてしまったが、場面転換自体は自然で上手かった。
観ていて、それぞれの人にそれぞれの物語があって、それらは他の人から見れば全く違うものなのかもしれないなと思った。
村上春樹の小説を読んだときにちょっと感じる、現実との妙なズレ感は、そういうものかもしれない。
たとえばナカタが猫殺しのジョニー・ウォーカーを殺すのは、猫を助けるという動機によるものであり、観客からすれば非現実的な世界に見えるのだが、それは結局カフカの実の父親が殺されて死んだという客観的事実(現実)に置き換わってしまう。
実際にカフカの父親が猫を虐殺していたかどうかは、実は不明だ。
それはジョニー・ウォーカーの世界であるか、ナカタの世界であるか、とにかく彼(ら)独自の物語でしかないだろうからだ。
現実、といって差支えなければ、現実と呼ばれる世界でのカフカの父親は、実際には猫を殺していなかったかもしれないのだ。
同様に、佐伯がカフカの実の母親である必要もない。
ただ、彼女は「子供を捨てた母親」なのだろう。
それぞれにそれぞれの物語があって、物語の多重世界が現実なのであり、たまたま交差したときに何かが起こる(あるいは何も起こらず片方の視点で語られるのみに終わる)ということなのであれば、「この登場人物たちは本当に同一の時間軸(現実)に在るのだろうか?」という疑問が浮かんでくるのも当然なことだ。
登場人物たちはそれぞれに妙な存在感があって、よかった。
カラスとか大島とか、格好よかったし。
さくらは面白かったし。
これまた原作を読んでいないので何とも云えないが、脚本がよく練ってあったんじゃないかと思われる。
でももう一度観に行きたいかと云われれば、たぶんもう二度目はいいや(笑)。
『わたしを離さないで』と違って、救いのない話ではないところが救いだった。
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