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2014年4月18日 (金)

【コンサート】バッハ・コレギウム・ジャパン『マタイ受難曲』  #マタイ #バッハ #BCJ


聖金曜日に受難曲を聴いてきた。

ものすご~く久しぶりに聴きに行った、バッハ・コレギウム・ジャパン。
昔は毎月聞いていたのにね(定期会員だったから)。
久しぶりだしキリスト教徒じゃないし音楽に詳しいわけでもないんで、以下はごくごく個人的な感想。
ファンの方は読んでも怒らないように。

今回は、ゲルト・テュルクのエヴァンゲリストを聴きにいったのだった。
他は度外視。
いやまぁ、バスのペーター・コーイはもちろん安心できるファクターではあったけど。
お二人とも何度も定演で歌声を聴かせていただいたが、もうあと何回聴けるかわからない、『マタイ』なんて長尺の曲はいつ「最後の機会」になってもおかしくないと、昨年チラシを見ていて閃いたのだ。
それで一所懸命本日のチケットを取ったわけである。
(とりわけゲルト・テュルクの来日頻度はどんどん減ってきていると思う)

第一部は、なんだか全般的にテンポが速いし、全員参加の部分はリズムがちぐはぐに聞こえるしで、「ついていけない」感じだった(ソリストたちを除く)。
ただ一か所、テノールのアリアと、コラールおよび楽器パートとの掛け合いは、非常に美しかった。
20番と書かれたパートだろうと思う。
アリアはもちろんだが、呼応するコラール(向かって右)やオーケストラ(向かって右)の演奏が、アリアをつぶさないように音量は抑えつつも、情感にあふれる音色になっていた。
でもそれ以外は、往々にして「ついていけない」感じが強かった。

第二部に入ったとたん、それまでの「ついていけない」感覚が一切消えた。
休憩の間に魂を入れたんじゃないかと思うくらい、すべてが良くなっていた(ように感じられた)。
これこれ、このドラマチックな世界に入りこめるのが『マタイ』でしょ。

とゆーわけで(?)以下の感想はすべて第二部に関するものである。

今回は、大衆の叫び(コラールのパート)における絶望感がよく伝わってきた。
「バラバ!」と叫ばれたときの選ばれない絶望感やら、「ユダヤの王様!」と揶揄されるときの理解されない絶望感やら。
私の思い込みなのか、指揮者の思惑なのか。
コラールが美しければ美しいほど、やりきれなさが募るようだった。

今回初めて聴いたクリント・ファン・デア・リンデは、声を聴くと映画『カストラート』を思い出すようなカウンターテナーだった。
なんというか、自分にとってのカウンターテナーってこういうイメージなんだなぁと再認識したりして。
ともあれ、安心して聴ける歌い手だった。

びっくりしたのは(これからちょいと失礼なことを書きます…)、テノールの櫻田亮。
いったいいつこんなにうまくなってたの?
2年くらい、彼の歌は聴いていなかったと思う。
それ以前に聴いたときは「やっぱり声量が足りない」とかって感想をブログに書いたような覚えが……。
ところがどっこい、あふれるような歌声だった。
うわー、うわー、こんなに豊かに歌える人だったんだー。
ソロリサイタルを聴きに行きたくなるくらい。
とにかく素晴らしかった。

他の日本人ソリスト(ソプラノII、アルトII、バスII)はまぁ……まぁ……。
アルトのアリア「私のほほを流れる涙が」はもっとも好きなパートの一つなんだけど(むしろ悔恨のペテロのアリアより好き)、ちょーっと一本調子に聞こえて残念だった。
逆に、アリアじゃなくて司祭だの女召使だののソロをちょっとずつ歌う人たちの歌が、気負いがなくて気持ちよく聴けたかな。

ちなみにコラールもオケも、なんとなくの印象でしかないが、向かって右の方が歌や演奏のバランスがよかった。
他のパートを潰さずに、でも自分の音を美しいまま届けるのが上手かったような気がする。
特にコラールは向かって右の方が安心して聴いていられた。

さて、最後に目玉のゲルト・テュルクだが。
今更何も云うことはない。
というか、毎回文句のつけようがない。
彼のエヴァンゲリストを一言で表すなら、「豊か」である。
彼のエヴァンゲリストを聴くまで、自分は「エヴァンゲリストのレチタティーヴォって退屈ぅ~」と思っていた。
それが、ゲルト・テュルクのエヴァンゲリストによって、根本からひっくり返された。
なぜテノールの名手をエヴァンゲリストに充てたがるか?
それはエヴァンゲリストのパートが量的に多いからではなく、最も表現の豊かさ、可能性を内包しているからなのだ。

まぁ、そういう思い込みをもって聴いているせいか、同じように「静かな」歌い方でも、キリストの生前と死後とではまるで違って聴こえるのだった。
死後の静かなレチタティーヴォは穏やかだった。
生前の静かなレチタティーヴォは、悲しみだったり知恵だったり戒めだったり慎みだったりはしたが、穏やかさはなかった。
アクティブなレチタティーヴォにしても、死後のものは徹頭徹尾、穏やかに聴こえた。

最後のアリアが始まると、毎回、「終わるんだなぁ」と思う。
そして「ずっと聴いていたい」と思う。
ペーター・コーイのバスのアリアと、続くコラールは美しかったので、終わるのが本当に残念だった。
「聴きに来るのはこれで最後かも」と思ったけれど、できれば来年も聴きたいと思った(できることなら「彼」のエヴァンゲリストで)。

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