【舞台】蜷川×シェイクスピア「ヴェニスの商人」(彩の国さいたま芸術劇場、埼玉・与野本町) #蜷川幸雄 #シェイクスピア #ヴェニスの商人
実はこの日と14日と、二回観に行った。
しかしもう過去のことに成り果てちゃったので、まとめて記録だけ(現在10/1)。
何をどうしたらあんなオッソロシイ差別用語だらけになるのかわからんぐらい、アンチ・ユダヤな脚本だった(笑)。
子供のころに知ったお話では、「悪徳高利貸しが人のいいアントニオを意地悪な契約書で苦しめようとしたが、逆に懲らしめられてめでたしめでたし」くらいのイメージだったが、どうしてどうして、その「人のいいアントニオ」のセリフがまずユダヤ人差別に満ち溢れている(つーか、かなり酷いことをがんがん言う)。
いやー、あんなにひどい差別用語がここまでちりばめられていようとは。
想像をはるかに超えていた。
俳優さんたちはみんな安心して演技を楽しめるレベル。
滑舌の悪い人もいないし、演技がワンパな人もいないし。
セリフ回しやタイミングも巧みだった。
バサーニオの「目が動く!」とか、ポーシャの「たったそれだけ?」とか、アントニオの「言葉にならない!」とか、二度観て二度とも笑い転げてしまった。
そう、ヴェネツィア市民陣営のパートを観るときは、ユダヤ人への差別の件は脇に置いて、ひたすら笑うしかない。
その点で、始終笑わせてもらえたのはありがたかった。
さて、亀治郎……じゃなくて、猿之助のシャイロック。
うまい。
ハンパなくうまい。
そして、歌舞伎の悪役の型までうま~く取り入れて憎々しい様子を見せるにもかかわらず、観客ほぼ全員がシャイロックの側にホロリとなっちゃう(ホントはそういう話じゃないんだよおぉ…)。
大竹しのぶのマクベス夫人を見た後、「こりゃしばらく他のマクベス夫人はとても見られないな(不満たらたらになるから)」と思ったが、猿之助のシャイロックもそういう感じ。
たぶん、他のだれがやっても「猿之助のときはこうだった」と、比較してしまうと思う。今後ずっと。
存在感を出すのも上手ければ、魅せる去り方、端々に絡める歌舞伎の所作(全然不自然に見えない)、老人としか思えない声、そしてよどみない口上、どれをとっても「うまい」としか言いようがない。
アントニオが自分に辛く当たることを並べ立てて、「なぜか? それは俺がユダヤ人だからだ!」と叫ぶときの迫力は、見ていて泣きそうになった。
泣きそうになるといえば、いわゆる「めでたしめでたし」のシーンが、超・こわかった。
シャイロックがポーシャにやり込められて、アントニオから担保は取れないは、自分の財産は失うは、散々な目に遭って退場していくところだ。
客席の階段を去っていくシャイロックの哀れさも極まっていたが、何がこわかったって、舞台上の評定衆がクスクス忍び笑いを漏らす、それが実に実にいやらしい笑いなのだ。
観ているこっちが心中で「もうやめて」と悲鳴をあげちゃうくらい、実に耐え難い嘲りの嗤い。
いや~、辛かった。こわかった、あの場面。
あそこで嘲笑の演技をしていた役者さん全員に拍手。
しつこいと思うだろうが、本当にこわかったのだ。
残念ながら二度目の観劇では、歌舞伎寄りのお客さんが多かったのか、退場する猿之助への拍手が長かったせいでそのクスクス笑いがあまり聞こえなかった(おかげで心臓がばくばくせずに済んだけど)。
だからあの日のお客さんはあの場面の演出をしっかり見取ってないだろうと思う。お気の毒様。
やはり二回見るのは有益だなぁ。
(ついでに、やはり土日に観に行くのは客層が違って危険だな、と、思ったりもした)
書いてるときりがないので、もうこのへんで。
最後に、毎回思うことなんだけど、シェイクスピアの脚本って(だれが書いたにせよ)凄い。
書かれたセリフが時代を超えて、その時代ごとの問題や普遍性(←矛盾をはらんだ謂いではあるが…)を獲得していく力がシェイクスピアの脚本にはある。
古くならないって、凄い力だ。
最後の最後に、アンチ・ユダヤについて一言。
「なんでこんな差別的な脚本なの」と思うかもしれないが、奥深くに「反セム主義」なる土壌があるらしい。
実はこの舞台を観に行く直前に、たまたま仕事で「反セム主義」なるものについてちょっと読んであった。
ヨーロッパでは、それはそれは昔からこの「反セム主義」(アンチ・ユダヤとほぼ同義)が根付いていたので、シェイクスピアがこういう脚本を書くのもまぁ致し方なしといったところがある。
ナチスのホロコーストはその「反セム主義」を極端に実現したもので、そうでなくてもずっと昔からユダヤ人は、もともとの住民たちから嫌われたり、居住区を限定されたり(いわゆるゲットーの用語の起源も実は古い)、為政者の市民に対するご機嫌取りの政策(ユダヤ人だけ増税とか)に利用されたりしてきたらしい。
この「ヴェニスの商人」においても、シャイロックらは市民権を持ってない。(だからこそ財力を高め、それで身を守ろうとするわけだが、それでいっそう市民の反感を買っちゃうという堂々巡り)。
でもって。
要点は、「それが当たり前」の世界だったのだ。
「だった」というのは早計かも。
ほとんどDNAレベルと言っていいくらい、脈々と受け継がれてきた「反セム主義」が、そう簡単に欧米で消滅しているとは考えにくい。
というわけで、おそらく当時のヨーロッパで上演されたときは、やんややんやの拍手喝采だったろう。
そこが我々にはわからないわけだ、「反セム主義」の下地がないから(差別がないとは言わない)。
善悪は置いておいて、そういう下地がこの脚本にはあるんだよ、という蛇足デシタ。
端的な感想を言えば、面白かった。
美術も音楽もよかったし、ああ、やっぱりいろいろ話したくてきりがないので、ここですっぱりやめよう。
観に行ってよかった。
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