質から量へ
今日はちょっと難しい(?)話。
近頃では「無限」はすっかり「無際限」の意味になってしまったようだ。
無際限、つまり果てのないこと、だ。
三次元空間的に果てしがないこと。
あるいは数限りないこと。
いずれにせよ、ここで言われる無限(無際限)とは、量的なものだ。
その昔、無限とは「何にも規定されない」ことを指した(だからホントは「もの」とか「こと」とかも付けられない(汗))。
規定とは限定と言ってもいい。
限定っちゅーのは、たとえばあなたがその辺の人を見て「人間だ」と判断するとする。
このとき、あなたはその辺の人を「爬虫類ではない」と「限定」している。
あるいは、オレンジ色の花を指して、友人が「あの赤い花はきれい」と言ったとする。
このとき、友人は花のことを「赤い」と限定し「黄色くない」と限定しているわけだ。
あなたが机で仕事をするとき、目の前のものを「机である」「作業台である」とすでに判断している。
それは「すべり台ではない」し、「ベッドではない」と限定している。
いちいち「●●ではない」と考える必要はないのだが(笑)、この形式を取ったほうが「限定」ってどんなことなのかがわかりやすいのだ。
で、「無限」はもともと「無限定」だった。
そんなもの、この世で考えられますか? なかなか考えられないはずですね。
「言語で語りうる」ことを最上とするギリシア人は「無限定=不完全」と同一視して、置き去りにしてしまったけれど、
時代が進むと逆に「何にも限定されない>>何ものでもあり何ものでもない>>神サマ~」ということになって重宝がられるようになる。
さらに時代が下って、近代で量的な空間認識が確立され、mathematicaでも幾何学から代数学へ主流が移行して極限の概念が規定されると、最初に述べたような「量的無限」が現れてくるのだが‥。
とにかく言いたかったのは、一昔前までの「無限」というのは、量的なものではなくて「質的」な意味のものだったということ。
数量が限りないわけではなくて、それ以前にそのものの性質を何一つ限定できない。
それが何ものであるかをまず言うことができない(量なんて数えられるわけがない)。そういう存在。
私にとってはどっちかってゆーとこの「質的無限」のほうが「無限」なのであるが、もはや死に絶えつつあるようだ。
代数学とデカルトの勝利というべきか(三次元的空間を最初にきちんと定義したのはたぶんデカルト)。
でもちょっと淋しい。
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